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9月, 2011の投稿を表示しています

函の中の狂人 the worst

 「今日はとても天気がよかったの。日差しも穏やかで」 「もう秋か」 「あと一ヶ月もしたら紅葉が見れるんじゃないかな」 彼は視線をゆっくりではあるがランダムに動かしている。その瞳に連動するかの様にしてたまに頭がくらりと動く。 「一ヶ月先はどれくらい長いだろう?」 彼は無表情に言った。眠れていない様で、目の縁は赤く、目の下の隈は深かった。 そして、全てを断絶した冷徹な目は鋭く妖しい光を反射させていた。今にもその眼差しで彼女を切り裂いてしまいそうだ。 殺意は表立っていなかったが、攻撃的な様子であるのが観察出来る。 「二十四時間が三十日…」 意味の無い事ではあるが、彼女は時間に換算しようとした。 「七二十時間」 彼女よりも計算を素早く終わらせた彼がぶっきらぼうに口にした。 視線を彼の顔へと持っていくと、どことなく眠たそうな顔をしていた。 その顔の表情は少しだけ以前の彼に近かった。中心にある感情ががらりと入れ替えられてしまったせいで、違った様子になっているのだ。照明を温かみのある電球色から青白い昼光色に変えた様に。 おそらく、薬を投与されているのだろう。周期的に何かから抜けだそうとする様に頭を軽く左右に振っていた。 彼は片手を頭の後ろに持っていき、くるりと髪を指に絡ませると、時計の秒針に近い周期で軽く引っ張る。 「一日の睡眠時間を八時間として、四八十時間は覚醒状態。百冊は本が読める」 彼は喋りながらもその手を止める事は無かった。視線は彼女の頭の上あたりで止めている。その後ろに何ものかがいるのかも知れない。その後ろの何かに少しばかり敵意を滲ませている様だ。 「私はあなたを連れ出して紅葉狩りに行きたいの、叶うなら」 「医者が出してくれるか?こんな俺を」 悪意、憎悪といった負の感情を纏った彼の口元が歪に嗤う。 「あなたは、冷静」 その言葉に彼の手が止まった。再び眼が細まる。そして彼女の方へ冷たい視線を投げる。 「俺は人殺しだ」 半年前の出来事が、かつての彼からすべてを奪い去った。 それは、彼がずっと昔から恐れていた事であった。 人は、思ったよりも簡単に変質する。鋼のストラクチャがゴムの様に曲がってしまう時の様に、突然で呆気なく。防止できる様な明確なサインも無いまま歪んでしまう。対比が大きければ大きい程、周りに与えるショックは大きい。 「かもしれないけど」 「駄目だ」 強...

出張 (2) Invisible Side

 迂闊だった。と気付いた時にはもう遅かった。 頭の中の空間が現れる。いつも通りの空間だった。全ての面が襖で区切られた和室で、小さな電灯がぶら下がっている以外には何も無い部屋だ。散漫に見れば狭い部屋に感じるのだが、広さを捉えようとすると、広がっていく奇妙な空間だった。 その部屋の殆ど中央に立っていた。そして、俺の姿は先程のスーツではなかった。肩には鮮やかな浅葱色の衣が掛かっていた。袖に腕は通していない。右手は塞がっている。それが、この部屋にいる時の俺の姿だった。昔は着物を羽織っていなかったが、ここ十年程はこの姿が基本になっていた。 目の前には男が立っている。あの男だ。と認識した瞬間、自分の顔に敵意が滲む。 緩くウエーヴのある髪が彼の顔の半分以上を覆っている。髪の間から、皮肉を中に含んだ目がこちらを覗いていた。口元は気分を害するくらいに、歪ませている。 「まだ、こちらに来ないのか?」 男は低くゆったりとした旋律を奏でる様にして言葉を紡ぐ。しかし、その旋律は決して心地のよいものでは無い。雑音あるいは歪みが混じっているせいなのだろう。 気泡が混ざってしまったマテリアルを叩いた時の様に、僅かながら響音が歪になるのと似ている。 「いつでも待っているぞ」 低く掠れた嗤い声を立てて男はこめかみを右の人差し指と中指で指す。拳銃に見立てている様だった。そして、男の口が横に広がる。 「狂れるのは、いつだ?気狂いの岩倉」 その言葉に、俺はその男を邪視に近い視線で睨み付ける。 触れられたのは逆鱗で、全身に緊張が走る。 膨張した空気が爆ぜる様な感情が喉に力を込めさせた。声帯が震えている。殆ど聞こえないが、威嚇する様な高音が発されていた。 ―岩倉は、穢れている。 かつて、他人に言われた言葉を思い出す。 事実、精神疾患の多い家系だったらしい。原因が環境なのか、それとも遺伝子的な問題なのかという事は調べようと思えなかった。絡まった糸の様な部分があるだろう事も予測出来る。俺自身はその様な複合的なものだと結論付けた。 ただ、自分の知っている近い親族で自殺者が二人出ているのを知っている。これが多いのか少ないのかは判らない。中学に入って直ぐの五月、二人目の自殺者が出た時の葬儀場面が自分の中に暗い蟠りを作っている。 突然、足元が崩壊して落下する様な驚きと恐怖。そして、対処法も無いまま、対処しなく...

出張 (1) Visible Side

 高速で流れていく窓の外の景色は夕暮れ時だった。 出張で唯一苦手な事と言えば、行き帰りの移動である。 路線の行き届いた地域であればまだ嫌いにはならなかっただろうが、生憎、自分の住んでいる地域というのは電車の路線は無い。 かつては一時間に一本だけ電車が走っていたが、十年程前―自分が今の家に移り住んだ頃―に廃線となってしまい、一番近くの駅は車で三十分以上という足の悪さだ。 開発される様な地域でも無く、歩けなくなったらどうするのだろう。 その時には宅配サービスなどが充実していて欲しい。などと、どこか安易な事も考える。 この安易さは甘い、と自分でも思う。無理であれば、家を引き払ってもう少し生活のしやすい街に移動した方がよいのだろう。気に入っている家であるので、出来る限りは住んでいたい。実家の方に戻る、という選択はいつだったか捨て去ってしまった。 鞄の中からレジュメの束を取り出して、昼間の会議の内容を思い出す。 束の中で必要なのは数枚程だ。あとは印刷して渡される程の物でも無い。そして、会議の内容というのもこの資料の内容の濃淡と同じ様に必要性の無い部分が多い。もっとスマートな事が出来無いのだろうか。 ハンドアウトに載っているものは短絡的なもので、指摘する部分が幾つかあった。 試算が甘すぎる。もう少しシビアに見るべきだ。 あれでは中期以降の見立てはよくはならないだろう。その頃には基盤が脆弱化している。 土に手を入れなければ根が張らない。根を張れない野菜は実らない。それと同じだ。 疑問点を暗に含んだ質問をしたが、その回答はやんわりと「考えていません」というものだった。 そんな事でいいのか? 自分は大丈夫だ、と考えている事が見え透いている。上になる程、壊滅的な事態が起こらない限り、身の安全が保証されていると思い込んでいる。 後輩達を考える。更に拡大する。結論は自分の中で明確だった。 少し、こめかみの辺りが痛んで、指先で押さえた。窓の向こう側で、自分が少し苦笑しながら首を振るのが視えた。確かにそうだ、まだ出来る。と窓ごしの彼に答える様にして顎を引いた。 もう一度、資料に目を通して幾つかのメモを拾い読む。ラップトップを起動させて、レポートの構成を整える。駅での待ち時間に大体の書くべき内容、課題点は打ち込んであった。 全体がまとまったので一度全体を読み通して、文法的な間違いを直...