出張 (2) Invisible Side
迂闊だった。と気付いた時にはもう遅かった。
頭の中の空間が現れる。いつも通りの空間だった。全ての面が襖で区切られた和室で、小さな電灯がぶら下がっている以外には何も無い部屋だ。散漫に見れば狭い部屋に感じるのだが、広さを捉えようとすると、広がっていく奇妙な空間だった。
その部屋の殆ど中央に立っていた。そして、俺の姿は先程のスーツではなかった。肩には鮮やかな浅葱色の衣が掛かっていた。袖に腕は通していない。右手は塞がっている。それが、この部屋にいる時の俺の姿だった。昔は着物を羽織っていなかったが、ここ十年程はこの姿が基本になっていた。
目の前には男が立っている。あの男だ。と認識した瞬間、自分の顔に敵意が滲む。
緩くウエーヴのある髪が彼の顔の半分以上を覆っている。髪の間から、皮肉を中に含んだ目がこちらを覗いていた。口元は気分を害するくらいに、歪ませている。
「まだ、こちらに来ないのか?」
男は低くゆったりとした旋律を奏でる様にして言葉を紡ぐ。しかし、その旋律は決して心地のよいものでは無い。雑音あるいは歪みが混じっているせいなのだろう。
気泡が混ざってしまったマテリアルを叩いた時の様に、僅かながら響音が歪になるのと似ている。
「いつでも待っているぞ」
低く掠れた嗤い声を立てて男はこめかみを右の人差し指と中指で指す。拳銃に見立てている様だった。そして、男の口が横に広がる。
「狂れるのは、いつだ?気狂いの岩倉」
その言葉に、俺はその男を邪視に近い視線で睨み付ける。
触れられたのは逆鱗で、全身に緊張が走る。
膨張した空気が爆ぜる様な感情が喉に力を込めさせた。声帯が震えている。殆ど聞こえないが、威嚇する様な高音が発されていた。
―岩倉は、穢れている。
かつて、他人に言われた言葉を思い出す。
事実、精神疾患の多い家系だったらしい。原因が環境なのか、それとも遺伝子的な問題なのかという事は調べようと思えなかった。絡まった糸の様な部分があるだろう事も予測出来る。俺自身はその様な複合的なものだと結論付けた。
ただ、自分の知っている近い親族で自殺者が二人出ているのを知っている。これが多いのか少ないのかは判らない。中学に入って直ぐの五月、二人目の自殺者が出た時の葬儀場面が自分の中に暗い蟠りを作っている。
突然、足元が崩壊して落下する様な驚きと恐怖。そして、対処法も無いまま、対処しなくてはならない虚無感を伴った哀しみ。
古い時代にはそれに依る偏見もあったらしい。もともといた土地から離れていった親族もいる。自分も、その一人だった。帰らずにいるのは、それとは少し別の理由もある。残念だけれども、自分で宗家は終わりだ。一般家庭なので跡継ぎなど、大事にはならない。それに、叔父や叔母もいるので岩倉は完全には絶える事は無い。
そう、絶えない…。
もう一人、自分とは別の理由で自分の血を遺さない事を決めたいとこもいる。少しばかり変わった理由ではあるが、先進的だと言えるかも知れない。先鋭的過ぎて許容出来る人間とそうでない人間と大きく別れてしまうだろうが、彼らしいと思う。知っているいとこ達の中で歪んだ人格を持っているのは自分と彼の二人しかいない。どこかで俺は彼を気に掛けている。おそらく自分の危うさと似たものがあるからだ。彼も歪んではいるが、外部に向けて悪をばら撒く様な人間ではない。つまり彼も外側から見れば安全な人間だ。
「俺は、行かない」
高音域の掠れた音は怒気を孕んだ音で、どうにかして怒りを抑え込めているのが自分でもよく判る。
「いつでもこちらに来れそうじゃないか。駅に降りたら、反対のホームに飛び込む事だってお前は出来るだろう」
一度、奥歯を強く噛み締めた。そんな事を、してたまるか。
「消えろ。邪魔だ」
右手を上げる。そこには日本刀が握られていた。その鋒を男に向けているのだ。
この部屋の中で、この男と対峙する時の俺は、いつも暴力的だった。自分という人間は、理性で感情をがんじがらめに縛り付けているのだという事を示す様に。
あまり振る舞いのよくない感情が目指している循環。エグジットが無く、エスケープキーも効かないループ。
そう、いつも同じ結末へ向かう。それが十年以上続いている。これが悪夢だ。
「案外、お前はツれないな」
見下した目で男は少し顎を上げた。
「最期は蝉みたいに終わるぞ」
男は喉の奥でくくと哂う。
その言葉に視界が波打つ様に揺らぐ。足元が覺束くなった気がして、腰を落として体勢を整える。
バイパスされている方の視覚回路に蝉が羽をばたつかせて鳴いている姿が浮かび上がる。過去の一場面。
―長く生きちゃいけないんだ。
もう、二十年以上昔、まだ小学生だった頃の俺が口にした言葉が頭の中で反響した。
丁度、他人に初めて面と向かって穢れている、と言われた直後の夏休みの事だった。まだ何となくの悲しさがあって気分が欝いでいたのだろう。その言葉が何を意味するのか識らない少女に呟いたのだ。言わない方がよかったのかも知れない、と思ったのは十年以上経ってからだった。
耳が利かなくなるくらい蝉の声が響いた気がして、刀の柄をぐっと握った。
苦しみたくない。狂乱の中でのたうち回るのは、御免だ。
自分を破滅させる気は無い。それこそが敗北だろう。
俺は生きる。それはずっと昔に決めた事だ。
「俺は、そう、気狂いだろう。俺は、何も遺さない。それでも―」
静かな闘志が俺の目に宿っていた。今ではもう誰の為でも無い、俺自身との孤独で永遠の闘争。
「壊れずに生き抜く」
それが俺の存在証明だった。俺に輝かしくうつくしいものがあると教えてくれた人と交わした約束。そして、限りなくうつくしいと思える永遠を見せてくれた愛する人に対する誠意。
理性の自己破壊は、見せられない。
「どこまで保つかね」
強い力で男は刀の峰を掴むと、そのまま自分の脇へと下ろし、その顔を俺の顔に近付ける。吐き気がする程だった。この男にだけは、嫌悪が剥き出しになる。
斬りつけてしまいたい衝動に駆られる。左手を添え、力を込めたが封じられているせいで刀は微動だにしなかった。
「現に、お前は私をここまで近付けている。この意味が解るか」
俺の顔が今にも吼え出しそうな程に歪む。そして、男の顔もにやりと歪んだ。
それぞれ、違う意味を顕す様にして顔を変形させている。
嗤うな。
「…それが、何だ?お前の存在は、俺が生きる為に在るだけだ。俺は、狂気を乗り越える」
ぎらりと、俺の目に力が入った気がした。狂気を乗り越える、と言った割に、この目が孕んだのは狂気そのものではないか。
失せろ。
「馬鹿な男だ。飲まれてしまえばよいものを」
男の口から短い周期で嗤い声が吐き出される。
ざわりと激情が俺の中を走り抜けた。脳の奥の一番昏い場所にある狂気は静かにこの部屋の出来事を収束させる為に俺の意識を書き換える。
柄を持った両腕に信じられない程力が入った。男の手を払い、素早く刃を地面から天井の方へ向ける。
終わらない、終われない。
俺は、彼の言う様に終わってしまいたいのか―
刀は一気に対角線を描く為に加速する。間髪を入れず切り返し、首を狙う。
返り血が俺の上半身に掛かった。皮膚を滑り落ちようとする血は水とは違った粘性を感じた。気分の悪くなる血脂の臭いがする。
一度に力が放出された反動で肩の力が抜ける。深く息を吐き出す。それでも俺の目は男を睨んでいた。咆哮を上げたあとの獣にでもなった様な錯覚。
「…ほら見ろ、気狂いめ」
男はにやりと嗤いながら言うと、背中から倒れる。
鈍い音が立った。
俺は漸く現実に引き戻された。
僅かながら、上体が前につんのめった。反射的に横目で通路側の席を見たが、隣に座っていた若い男はヘッドフォンを付けたままぐっすりと寝ている様だ。あとは自分が寝言を言っていない事を願うだけだった。
どうやら、県内に差し掛かっている様だった。
もうすぐ駅に着く。今の状態で車で家に帰る事を考えるとかなり辛いものがある。
駅に着いたら、気分を変える為に何か食事でもしよう。食事と言うよりも、コーヒーか何か飲み物がいい。
それから、帰って風呂に入って出来る限り落ち着かせる。日付が変わる頃までに寝れば、何とかなるだろう。
あの部屋の出来事とそのあとに立ち現れる現実、実際、どちらの方が悪夢だろうか。
つくづく、くだらない事を思い浮かべたものだ。