函の中の狂人 the worst
「今日はとても天気がよかったの。日差しも穏やかで」
「もう秋か」
「あと一ヶ月もしたら紅葉が見れるんじゃないかな」
彼は視線をゆっくりではあるがランダムに動かしている。その瞳に連動するかの様にしてたまに頭がくらりと動く。
「一ヶ月先はどれくらい長いだろう?」
彼は無表情に言った。眠れていない様で、目の縁は赤く、目の下の隈は深かった。
そして、全てを断絶した冷徹な目は鋭く妖しい光を反射させていた。今にもその眼差しで彼女を切り裂いてしまいそうだ。
殺意は表立っていなかったが、攻撃的な様子であるのが観察出来る。
「二十四時間が三十日…」
意味の無い事ではあるが、彼女は時間に換算しようとした。
「七二十時間」
彼女よりも計算を素早く終わらせた彼がぶっきらぼうに口にした。
視線を彼の顔へと持っていくと、どことなく眠たそうな顔をしていた。
その顔の表情は少しだけ以前の彼に近かった。中心にある感情ががらりと入れ替えられてしまったせいで、違った様子になっているのだ。照明を温かみのある電球色から青白い昼光色に変えた様に。
おそらく、薬を投与されているのだろう。周期的に何かから抜けだそうとする様に頭を軽く左右に振っていた。
彼は片手を頭の後ろに持っていき、くるりと髪を指に絡ませると、時計の秒針に近い周期で軽く引っ張る。
「一日の睡眠時間を八時間として、四八十時間は覚醒状態。百冊は本が読める」
彼は喋りながらもその手を止める事は無かった。視線は彼女の頭の上あたりで止めている。その後ろに何ものかがいるのかも知れない。その後ろの何かに少しばかり敵意を滲ませている様だ。
「私はあなたを連れ出して紅葉狩りに行きたいの、叶うなら」
「医者が出してくれるか?こんな俺を」
悪意、憎悪といった負の感情を纏った彼の口元が歪に嗤う。
「あなたは、冷静」
その言葉に彼の手が止まった。再び眼が細まる。そして彼女の方へ冷たい視線を投げる。
「俺は人殺しだ」
半年前の出来事が、かつての彼からすべてを奪い去った。
それは、彼がずっと昔から恐れていた事であった。
人は、思ったよりも簡単に変質する。鋼のストラクチャがゴムの様に曲がってしまう時の様に、突然で呆気なく。防止できる様な明確なサインも無いまま歪んでしまう。対比が大きければ大きい程、周りに与えるショックは大きい。
「かもしれないけど」
「駄目だ」
強い口調で彼は言った。否定の意味で一度首を振る。
そして、目眩を起こしたらしい。ふらつきを抑えようとこめかみに手を添えて彼は一度うつむいた。しばらくそのまま黙りこんでいたが、ふっと顔を上げて彼女を凝視する。
「君は希望だ。自由になったら、まず君を殺さなければいけない」
まだ、その目には冷たく尖ったものがあった。彼女はナイフを胸元に当てられた様な錯覚を感じた。彼女の心臓がぎゅっと収縮し、体中がひやりとした。
もし、遮断されていなかったら、刺されているだろう。恐ろしいけれども、彼にだったら殺されてもいいかも知れない…。そんな危うい想像を彼女は張り巡らせた。
「どうして…、…どうして、希望は殺さなくてはならないの?」
恐怖を感じながらも、彼女は上半身を彼の方へ近付けた。
「何も残さない。残してはならない。残す可能性のある者は、俺の外に誰一人生きてはいけない。それが理だ」
ふと、今会話をしていた事を忘れたかの様に彼は横を向き、一点を眺めた。
彼女はその視線の先を追ったが、そこには何も無かった。
黙って、彼女は次の言葉を待った。
時計の音が無機質に時を刻み続け、刺す様な沈黙を彼女はひたすら耐えた。
神様、どうか慈悲を―
何度も彼女は神に祈った。
何度目かの祈りが通じたのか、ゆるり、と彼の頭が動いた。
「…愛している」
愛しい笑みが彼女の目に写った。彼の存在を瞬時に見つけた彼女の瞳が潤む。
その口調は彼女が慣れ親しんできた彼そのものだった。
あなたのその笑みが、一番好き。
彼女の胸の中に暖かな感情が湧き出す。
「今も、これからも。僕は、ずっと君を愛している。けれど―」
彼女の方へ視線を向ける。その瞳は彼女をしっかりと捉えていた。そして、本来の彼が持っている理性の輝きがそこにあった。
「僕の意思は持続しない。一時間も…いや、十分も保たないだろう。直ぐに"彼"に戻る」
静かに、彼は二人を遮る透明な板に触れた。
その板の触覚にずきりと痛みが走ったらしい彼は苦痛に顔を顰めた。
呻いた様に聞こえたが、実際、男は掠れた声で笑った。
「わかったかい?俺という構造が」
彼女は強い瞳で彼という理性を失った狂人を見つめる。
それは嫌な笑みを口元に浮かべた。ぎらぎらと光る眼は獲物を見つけた獣が狩りを始める時の様に彼女に照準を合わせていた。それでも彼女はじっとその姿を、瞳を見ていた。
彼から逃げない事。それが彼女に出来る彼らに示せる誠意、愛情だった。
愛しているよ、と狂人は彼女に吐き捨て、そしてガラスの板をべろりと舐めた。